金沢城址を大学用地に

協議資料 北陸帝国大学組織試案

昭和21(1946)年8月6日
(在京顧問評議員会)協議資料

 「場所 金沢市野田町,長坂町及組ミ入レラルベキ学校ノ敷地」とある。野田・長坂の旧軍施設を大学用地としている。
 昭和20(1945)年10月22日,占領軍の県内進駐が始まり,金沢城址や野田・長坂の旧陸軍施設に配置された。
 昭和21(1946)年6月3日に結成した北陸総合大学設置期成同盟会は,同年8月6日,在京顧問評議員会を開催した。この時の協議資料では,金沢城址ではなく「金沢市野田町長坂町(の旧陸軍施設)及び組み入れらるべき学校の敷地」を大学用地としている。(『創設資料 壱巻』)

「金沢城址に関する件」(『創設資料 壱巻』)(左)

石川軍政隊司令部APO713(本州金沢)発
石川県知事宛
昭和22(1947)年12月3日

「金沢城址利用に関する件」(『創設資料 壱巻』)(中)

石川県知事 柴野和喜夫発
石川軍政部隊長宛
昭和22(1947)年12月12日

「石川軍政部長談話」(『創設資料 壱巻』)(右)

昭和22(1947)年12月22日(昭和22年12月23日付『北国新聞』掲載)

 石川県内では,昭和21(1946)年4月に北陸総合大学設置期成同盟会の結成を前に準備活動を開始,6月の結成式以降設置運動を行っていた。
 同年11月30日に,「軍政部より増本(甲吉・石川県)内務部長を訪問,好意的見解あり。」(「北陸総合大学設置運動経過概要」『創設資料 壱巻』)とある。
 中央では,昭和21(1946)年3月に第1次米国教育使節団の報告による教育改革が示唆され,8月には教育刷新委員会が設置されている。教育刷新委員会が,6・3・3に続く教育機関を,4年制の大学とし,さらに研究を継続する機関として研究科または研究所を設けるという,新制大学に関する大綱を決定したのはこの年の12月であった。教育基本法,学校教育法の制定は翌22(1947)年の3月。「好意的見解」が,後に実現する接収された旧軍施設の開放と大学設置を意味するならば,それが出された11月30日時点では,具体的な新制大学像は,まだ模索の段階であった。

 「昭和22(1947)年8月27日石川軍政隊の好意的意志により県側及び直轄学校長等金沢城址を詳さに視察」し(「同上」『創設資料 壱巻』)」,「9月8日には直轄学校長と県議会との話し合いがなされて明確に城址を大学建設用地にすることを決定した。」(『金沢大学工学部五十年史』)軍政部からの文書での正式な通知は12月3日である。

 「金沢城址に関する件」は,軍政部により接収された城址は近く県に返還される予定である,その際,北陸総合大学設立準備委員会に5カ年の条件付き借地権を与える,5年後に大学設立が実現していなければ,金沢城址は,金沢市が教育・リクリエーション厚生施設として利用することを可とするものである。条件として,直ちに大学設立の準備を開始し,包括される各学校が重複を避け学部を編成すること,及び旧軍施設の大学施設への転用に関する指示等をあげている。

 以下は,「金沢城址に関する件」を受けた北陸総合大学設立準備委員会の様子である。

 「この覚え書きを受け取った委員会はにわかに活気づき,趣旨に添う旨の下に立案された回答が送られ,また知事談話が発表される等内外交々多忙となり,会議は連日開かれた。」
 「金沢城の確保なって直ちに委員会が副知事室で開かれた。平素ゼスチェアの少ない委員の顔もこの日ばかりは特別で子供のようなはしゃぎ方であった。数年にわたる労苦がここに報いられたのだ。まさに開拓者の喜びであった。」(「金沢大学の誕生」『金沢大学事務通報第1巻第9号』,山知外男,昭和25(1950)年9月)

 金沢城址は16世紀半ばに加賀一向一揆の拠点である「金沢御堂」がおかれた地であるとして,真宗大谷派による蓮如450回忌を記念する「北国宗教大学」,あるいは総合大学における「宗教学部」の構想があった(昭和22(1945)年頃)。条件に示されている「7.真宗の仏教徒が前述の大学の管理に入る宗派に関しない宗教学部を設立することを欲しないならば真宗の古刹の址に記念碑を建てること」(「金沢城址に関する件」『創設資料 壱巻』)との条項は,この構想が断念されたことを示している。この記念碑は建立されていない。

金沢高等師範学校長庄司彦六とイールズの対談

昭和24(1949)年1月14日

 “ Mr. Shoji then reviewed briefly, the plans for utilization of to castle area at Kanazawa for establishment of the proposed consolidated university and asked for advice concerning it.
Undersigned suggested that the move be made gradually but with long range plans to avoid useless construction of new buildings in the city where they might better be built on the castle area.”

 訳:庄司氏は計画されている総合大学設立に金沢城内を利用する計画について簡単に説明し,それについての意見を求めた。イールズは長期にわたる計画を徐々に実行し,市内に無駄な建造物の建設を防ぐため城内に建設するほうが良いということを示唆した。

 この頃,昭和23(1948)年末から翌24(1949)年1月にかけて,軍政部から教育学部を城内に移すことを,2度にわたって勧告を受けている。

金沢大学薬学部長鵜飼貞二とイールズの対談

昭和24(1949)年7月9日

 “Dr.Ukai discussed the possible use of part of the castle area at Kanazawa for a court of family relations and for a civic gathering place. Undersigned expressed the judgement that the entire area should be reserved for ultimate university use but that if cooperative arrangements could be made, perhaps on a temporary basis, for use also as a civic gathering place, it might be highly desirable.”

 訳:鵜飼氏は,金沢城の一部を家族の憩いの場や市民の集会場として利用できるか討議した。イールズは,根本的に全区域を大学の用地とすべきだが,暫定を原則として協定がなされれば,市民の集会場として利用することも非常に望ましいとの判断を示した。

 金沢大学創設委員会が4月に発足,開学準備にあたる。5月31日国立学校設置法により金沢大学が設置。6月15日から入試。6月18日金沢大学協議会が発足。第1回入学式は7月25日,城内では校舎改装工事中で,翌日から夏期休業に入り,授業開始は9月2日。
 7月9日時点では,金沢城址では旧陸軍兵舎の校舎への改装工事が急がれていた。


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