北陸帝国大学構想

北陸帝国大学設立に関する建議

 金沢(市)に北陸帝国大学を設置することは多年にわたる要望であり,明治末以来幾度か帝国議会に建議案が提出され可決されてはいるが,いずれも実現には至らなかった。
 明治44(1911)年1月31日,第27回帝国議会に「北陸帝国大学設立に関する建議案」が戸水寛人らによって提出された。東京,京都,東北,九州に次ぐ北陸帝国大学の設立を望む建議である。

 建議案は2月4日,議長指名の特別委員9名に付託される。2月6日の「北陸帝国大学設立に関する建議委員会議録」では,戸水は,現在4つの帝大があるが,大学の絶対数が少ない点とその分布状況から北陸に帝大が必要であることを指摘する。これに対し文部大臣小松原英太郎は今は必要がないと回答する。こういった審議のあと委員会では,特に反対意見がないということで「全会一致を以て可決」となる。2月18日には,全会一致で可決したとの委員長報告があり,その報告のとおり本会での可決となる。第27回帝国議会の会期中,提出された建議案は80件,うち65件が可決されている。当時の議会では「可決」即ち「実施」ではなかったようである。

■戸水寛人
 戸水寛人は,文久3年(1863)生まれ。加賀藩本多家旧臣。明治13(1880)年石川県中学師範学校卒業。同校の一級下には大正期に文部大臣となる中橋徳五郎がいる。
 明治15(1882)年戸水は中橋とともに県費留学生として選抜され,東京大学法学部選科生となるが,途中予備門の卒業試験を受け本科に編入される。同19(1886)年7月帝国大学法科大学卒業。帝国大学令の制定(明治19(1886)年3月)によって設置された大学院に入る。英国留学を経て,同27(1894)年帝国大学法科大学教授。教授時代に引き起こした有名な七博士事件がある。

■帝大七博士事件
 日露戦争前後,東京帝国大学法科大学を主とする戸水ら教授グループは,対ロシア強硬外交を主張,政府を攻撃する。これに対し同学総長山川健次郎は同38(1905)年8月,中心人物である戸水を休職処分に付したが,処分に対する手続き上の責任のため山川が辞職,後任が任命された。この処置に教授側は政府に抗議。研究活動の自由,大学の自治をめぐる論争となり,翌39(1906)年1月戸水は復職し,一応の解決となる。

 戸水は明治41(1908)年5月の第10回衆議院議員総選挙に立候補,保守勢力である立憲政友会に大勝する。この選挙には「第四高等学校の学生が白熱的声援を与え」たという(『石川県史第4編』)。翌42(1909)年5月には立憲政友会に入党,同年12月,大学を辞職,政治活動に専心した。衆院選では5回当選している。

 戸水は明治44(1911)年の「北陸帝国大学設立に関する建議案」につづき,翌45(1912)年に第28回帝国議会に「金沢高等工業学校設立に関する建議案」を提出している。提案理由の説明には,工業教育を充実する必要,金沢は美術・工業が盛んであること,県立工業学校(明治20(1887)年創立)が効果をあげていることを示している。この提案は,中橋徳五郎の文相時代に金沢高等工業学校の設置(大正9(1920)年)となって実現している。


当サイト内で使用されている資料画像及び引用文の無断転載を禁止します。
ご意見・ご感想はE-Mail:museum@ad.kanazawa-u.ac.jpまでお願いします。