北陸帝国大学構想
 金沢(市)に北陸帝国大学を設置することは多年にわたる要望であり,明治末以来幾度か帝国議会に建議案が提出され可決されてはいるが,いずれも実現には至らなかった。
 明治44年1月31日,第27回帝国議会に「北陸帝国大学設立に関する建議案」が戸水寛人らによって提出された。東京,京都,東北,九州に次ぐ北陸帝国大学の設立を望む建議である。この建議案は衆議院で可決され,2月18日,内閣に送付されている。

 戦後の北陸総合大学構想
 大正7年の「大学令」は官立単科大学,公立大学,私立大学を法的に認めるものだが,同時に帝国大学をそれらの上位に位置づけた。昭和21年に既存の7帝国大学は政令により国立総合大学と改称される。構想にあげられている「北陸総合大学」とは,帝国大学型の大学を志向するものと思われる。

 北陸総合大学設立準備委員会
 昭和22年3月31日の「教育基本法」(同日施行),「学校教育法」(翌4月1日施行)の公布により新学制が実施された。
 旧制度では大学の設置認可行為は文部大臣の権限であり,「関係官庁への陳情,議会への請願建議で大学を誘致」することも可能であったが,「大学設置基準委員会(ママ,大学設置委員会か)の審査,文部省がこれを認証」する方法が採用された。これにより設置基準をみたす施設の確保が急務となった。この新制度に対応するため,昭和22年11月4日,北陸総合大学設置期成同盟会を発展的に解消し,「石川県関係限りのものとして」北陸総合大学設立準備委員会が設立された。(「国立北陸大学設立準備委員会設置要項(案) 昭和22年9月30日」創設資料 vol. 1)

 北陸大学設置認可申請書
 文部省は「昭和23年5月5日付 発学144号通牒」で大学設置認可申請書提出期限が7月末日であることを通知した。
 これに対し,北陸大学実施準備委員会(昭和23(1948)年5月14日,北陸総合大学設立準備委員会を北陸大学実施準備委員会と改称する)は,7月末日よりはるかに早い5月31日付で「北陸大学設置認可申請書」を提出している。金沢における大学設置の推進運動は,昭和21(1946)年6月から市民レベルで活動を始め,昭和22(1947)年11月からは石川県・官立校を中心として公的な機関として本格的に取り組んできた。設置認可申請書作成のための準備は,既に整っていたといえる。

 教育宝くじ・寄付
 いわゆる「国立大学設置に関する11原則」では「(ニ)新制国立大学の組織施設等は差し当たり現在の学校の組織施設を基本として編成し逐年これが充実を図る。」とされ,財政条件は極めて貧困であった。従って,8600万円と見られた創設費としての臨時費は,大部分は地元の負担となり,その捻出方法は「地元の公共団体及び民間有志者の寄付にまつ」よりほかはない,という状態であった。(「北陸大学について 昭和23年5月 北陸大学実施準備委員会」『創設資料 壱巻』)

 初代学長決定
 昭和24年3月,包括各学校在勤の3級官以上の文部教官及び専任講師369名により直接選挙が行われた。有効投票数301票中207票で学長候補者を京都大学名誉教授戸田正三に決定。同年4月,金沢大学設立人事委員会(ママ,金沢大学実施準備委員会の人事委員会か?石川県知事柴野和喜夫,副知事土井登,金沢市長井村重雄,石川県商工会議所会頭西川外吉,北国毎日新聞社長嵯峨保二,包括各校長で組織)で全員一致で戸田推薦を決定,文部省に上申した。

 金沢城址を大学用地に
 昭和20年10月22日,占領軍の県内進駐が始まり,金沢城址や野田の旧陸軍施設に配置された。
 昭和21年6月3日に結成した北陸総合大学設置期成同盟会は,同年8月6日,在京顧問評議員会を開催し,第90回帝国議会に請願,建議案を提出するが,このときの協議資料では,金沢城址ではなく「金沢市野田町長坂町(の旧陸軍施設)及び組み入れられるべき学校の敷地」を大学用地としている。


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