翻刻はこちら→  「成瀬正居日記」を読む(金沢大学附属図書館元職員・梶井重明氏作成)

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naruse01.JPG  幕末から明治にいたる動乱の時代を生きた金沢人,成瀬正居(マサスエ)(1828-1902)の日記である。虫損が激しく長い間利用出来ない状態であったが,平成8年度より3ヵ年計画で修復作業が行われ,この程修復が完了した。日記は,藩校明倫堂へ通う15歳の少年の日の記録から始まる。毎日の天候や友人,親類縁者との交際,先生の授業の様子など,時刻を記入して刻銘に綴られている。幕末・維新期の日記は,彼が加賀藩の中枢に関わる要職を歴任した時期であり,精彩をはなっている。加賀藩史研究の第一級の史料として今後の研究が待たれる。また金沢城下で起きた様々な事件も記録されている。さらに加賀藩洋学校壮猶館の長官にあたる壮猶館主附を勤め,明治6年より現在の教育委員会にあたる学務課に勤務したこともあり,草創期の石川県教育史の史料として重要であると思われる記録も多い。また,役職に伴い在住した,小松や富山県の魚津や泊,幕末に往還した京都,大坂,江戸などへの,旅行記の部分も多い。附録として,「京都地理研窮記」「能州地利研究記」と題した旅行記がある。晩年の日記には,白山比刀iひめ)神社の神官としての生活が細かに記録されている。

  ↓弘化3年日記の冒頭
 成瀬正居は文政11年4月23日,加賀藩人持組,成瀬正敦(マサアツ)の嫡子として,金沢に生まれた。通称甚五,主税,子美。号は松窩。加賀藩の人持組は最高家格である八家に継ぐ高位の家柄である。父正敦は,公事場奉行,御算用奉行,寺社奉行,若年寄等の重職を歴任した。正居は安政元年父の病死により,その跡目を相続した。知行高,二千五百石。同年2月定火消役を皮切りに,同2年壮猶館御用主附,同3年小松御城番,同4年魚津在住,文久2年越中泊在番などの役職を歴任。文久3年には,寺社奉行に就任した。慶応3年より御近習御用となり,幕末・維新期加賀藩の中枢にあって活躍した。明治2年の版籍奉還ののち,金沢藩の権少参事となる。廃藩置県以降は,明治6年石川県に出仕し,学務課等に勤めた。明治15年,白山比刀iひめ)神社禰宜に任じられた。明治35年10月4日没。享年75歳。

 正居はこの日記のほかに,「魚津在住日記」「小松御城番御用方留日記」「泊在番御用達留」「壮猶館御用雑記」「壮猶館御用日記」「寺社方御用日記」ほか膨大な記録を残している(その多くは金沢市立玉川図書館に所蔵されている)。また,歌学を田中躬之(ミユキ)に学び,歌人としても著名である。「言霊傳」「歌題四季部類」の著書が知られている。

  ↓明治34年の懐中日記最終ページ
 「成瀬正居日記」は,大正14年に遺族の成瀬桓氏より第四高等学校へ寄贈され,金沢大学附属図書館へ引き継がれたものである。寄贈当時の記録には57冊とあり,現在と同じである。それぞれの表紙には墨筆と朱筆で書かれた通し番号がついているが,朱筆の通し番号には欠番がなく,寄贈当時に書かれたものと思われる。一方,墨で書かれた通し番号は,所々欠番になっている。さらに,欠番の前後の日記の表紙に,失われた日記について朱筆の注記がある。これにより日記の原形は,全71冊,書かれた年代は,天保9年(正居10歳)から明治34年(死の前年,正居74歳)までであることがわかる。現存する日記は,天保14年の下冊(7月より)から,明治34年までの57冊である。横帳仕立ての和装本42冊(そのうち第一冊目だけは縦長の小本),洋装の懐中日記15冊。


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